【本当の真実など知ろうとするな】今の情報社会での生き方を考える

ビジネス

どうも牧瀬です。

今回はですね、情報の信ぴょう性を見極めるために、一次情報かどうかという事を重要視しつつ、この情報にあふれている世の中をどう生きていけばいいのか?何が必要なのか?という話です。

 

巷にあふれる情報って、色々ありますよね?

 

新聞、テレビ、雑誌・・・これらの「メディア」

 

そして、今はインターネットからの情報も大量に手に入る時代です。

 

インターネットといっても、ネットニュース、SNS、個人ブログ等、色々ありますが、この多種多様な情報社会になった事により、よく聞くようになった言葉、それが「一次情報」とか「一次ソース」などという言葉です。

 

その背景には、多種多様な情報が手に入るようになった事により、信ぴょう性が怪しい情報や、完全なデマやウソ情報なんかも飛び交っているような状況になってしまっているからなのでしょう。

 

そんな状況下で、数多くの情報、一つ一つの信ぴょう性を見極めるために、その情報はどこからの発信なのか?」という事が重要視されるようになってきたわけです。

 

この風潮を作り出したのは、大量の情報が発信されるインターネットの影響によるところが大きいのですが、そのインターネットから得る情報により、多くの人が気付いた「ある事実」があります。

 

それは「メディア、マスコミの情報ですら、全て真に受けるのは危険だ」という事実です。

 

その事に大きく影響を与えたのは、やはり「SNS」存在ですかね。

 

SNSの登場により、多くの人が個人の情報を世の中に向けて発信する事が簡単にできるようになりました。

 

で、

同じように企業や団体、有名人、政府や政治家までもが独自で情報発信をし、それらを気軽に多くの人々が閲覧できるようになったのですが、それにより多くの人が気付いたのです。

 

「あれ?マスコミから出ている情報と、何かが違う・・・」

 

最近よく言われるようになった、マスコミ、メディアによる偏向報道、キリトリ報道などと言われるヤツです。

 

ある一方の意見、主張だけを取り上げ、民衆意識を誘導するような報道や、一部の内容だけを切り取り、全く違う印象を与えるような見せ方をするメディアの姿勢に、最近は多くの批判が集まるようになりました。

 

これにより、全ての情報が純度100%で配信されているわけではなかったんだと、多くの人が気付いてきたんですよね。

 

このような事から考えると、メディア、マスコミからの情報・・・これらも一次情報ではなく、誰かの意図する方向へ誘導するように加工されている情報という事になるのです。

 

まあただ、政治的な話や、マスコミの正体ってなんなんだ?みたいな話を今回、ここでするつもりはありません。

 

それに、その偏向報道やキリトリ報道というのは、その全てが悪意があってされている物ばかりではないですしね。

 

ある一部の人たちの心情に配慮したり、特定の企業が不利にならないようにしていたりする場合もありますから。

 

今回、何が言いたいのかというと、このようにテレビやマスコミの情報ですら鵜呑みにできない状況で、私たちはこの情報社会でどのように立ち振る舞っていかなければならないのか?という事を考えていきたいのです。

 

 

一次情報とは?

 

上記で、マスコミの情報ですら一次情報ではないという話をしましたが、そもそも一次情報とは何なのでしょうか?

 

「一次情報とは」でググってみると、

「オリジナルな情報、つまり著者本人が直接的に体験から得た情報、考察、本人が行った調査や実験の結果」

 

なんていう感じで出てきます。

 

しかし、最近のネット界隈で使われている「一次情報」というのは、政府機関等が直接発信している情報などを指し、「一番近い機関や団体からの発信情報」を定義するのが一般的になっているようです。

 

本来の定義と違う使われ方をしているので、間違った使われ方をしている・・・なんて見方もあると思いますが、僕はこういう使われ方になってしまうのは仕方ないのかな、と思ったりするんですよね。

 

まあ、マスコミの偏向報道などで、より真実に近い情報という意味で、一次情報という言葉が多用されるようになったのが始まりだと思いますが、この本来の「本人(当事者)が所有する情報」という定義では、一次情報という言葉を使える場面というのが、極端に限られてしまいますから、誰かが勝手に解釈を広げて、それをみんな使うようになったんでしょうね。

 

まあ、それこそ僕の勝手な解釈でなんですが (-_-)

 

いずれにせよ、少なくともここでは、一次情報という言葉の定義は少し広い意味の解釈で使っていきますね。

 

 

情報は加工されるのが当たり前

 

ここまで、一次情報の重要さというのは何となく理解していただけたと思うんですが、一次情報の重要さって、身近で起こる出来事からも実感する事ができるんです。

 

例えば、あなたの職場の現場でトラブルがあったとして、そのトラブルの内容が、人伝で上がってきた情報と、実際に現場に行って調査した情報とでは異なっていた、なんて経験はないですか?

 

伝言ゲームとかで、人伝で流れる情報がどんどん変わっていって、最後には全く違うニュアンスの情報になってしまった様というのを目の当たりにした事がないでしょうか?

 

情報というのはその間に人を介した分だけ、変化してしまう事が良くあるんですよね。

 

間に入った人たちも、決して悪気があって情報を変えているわけではなく、「それぞれ個人の解釈」で伝えているだけなのです。

 

さらには、

「これは言わない方が揉めなそうだ」

とか

「おそらくこれはこういう事だから、付け加えて報告しよう」

なんて余計なものも加わり、ひどい時は正しい情報の原型を留めていない・・・なんて事も起きてしまうわけです。

 

メディアの情報というのも、記者が記事を書き、それをその記者の何人かの上司がチェックして、時には添削をし、問題ないと判断されてから出稿されて記事になっていきます。

 

シンプルに考えて、これだけ間に介入するものがあれば、一番最初に書いた記事の内容がそのまま世に出る事はないと考える方が自然です。

 

その記者の独自の見解というのも加わりますしね。

 

「いやいや、そんなこと言ったら、政府や機関が出している情報だって、誰かの検閲を受けているわけだから、それも一次情報とは言えないのでは?」

 

なんて意見もあると思います。

 

ただそれを言ってしまうと、先ほども言った通り、純粋な一次情報というのは当事者しか知り得ない情報という事となりますから、そんな情報が生のまま、誰のチェックも無しで発信されてしまう世の中だったら、それはそれでヤバいですよね?

 

言い方を変えると、誰も介していないオフィシャルな情報なんて、この世の中にほとんど存在しないんです。

 

それを前提に考えると、「その情報に一番近い機関が発信している情報」が一次情報、となるんではないでしょうか?

 

ですから違う見方をすると、

一次情報=本当の真実

 

そもそもこんな定義をするのはナンセンスという事になりますね。

 

 

本当の真実など知る事はできない

 

もう少し深堀りしますね。

先ほど、一次情報というものを、「本当の真実」と定義すると、それは実際の当事者しか知り得ない情報という事になってしまうと言いました。

 

当人しか分からない事ならば、そもそも情報にすることはできません。

極論に聞こえるかもしれませんが、よく考えてみて欲しいんです。

 

当事者が言ったという言葉を「真実」としたとしても、実際はその当事者が本当の事を言っているかどうかなんて、誰にも分らないんですよ。

 

ですから、本当の真実なんて証明することはできない、つまりはその情報は本当の真実なのかは分からないという事です。

 

極論言っているのは分かってます。

屁理屈と言われるかもしれません。

 

でも最近、本当にそう実感した出来事がありました。

 

あえて名前は出しませんが、有望な若い俳優さんが自殺しました。

 

その俳優さんは妻が大ファンで、その影響で僕もファンでした。

彼が10代の頃から知ってますし、舞台を観に行った事もあります。

最近も、多くのドラマや映画に出ていて、歌もダンスもうまく、順風満帆に見えていました。

 

でも、彼は謎の自殺をしてしまいました。

 

報道では、遺書が見つかっただとか、家族が原因だとか、色々情報が出てきていますが、私たちファンは「本当の真実」など永遠に知る事はできません。

 

遺書だって本当に本人が書いたものなのか?そもそも本当に遺書などあったのか?・・・何に悩んでいたのだろうか?

 

本人しかわからない情報です。

もう、今となっては知る由もないのです。

 

仮に、彼の遺書を読む機会があったとしても、そこに書かれている事が本音なのか真実なのか判断する事はできないでしょう。

 

身近にいた親族や関係者は、日ごろの本人の態度や言動から、何か感じる部分もあったのかもしれません。

 

でも感じる部分がある程度あったとして、自殺というのは普通に理解できない事ですし、恐らく、周りにいた人も受け入れられずに苦しんでいるのだと思います。

 

いくら仮説を立てても、本当のところは本人しか分からないのです。

 

この件で、僕は「他者の本当の真実」なんてものは知る事が出来ないんだと本当に実感しました。

 

 

「知りたい」が強すぎると・・・

 

とは言え、

いくら真実が知りたいと思っても、知る事はできない、でも知りたい・・・

こういう欲求を持つのは普通の事です。

「知りたい」

「それって何?」

いくら想っても知る事ができない真実、そういうものがあるからこそ、余計に知りたいと思うわけです。

 

ですが、常にそのようなマインドでいると、このような状態になります。

「何か自分が納得する材料が欲しい・・・」

これ、ほぼ無意識に思っている事です。

 

自分が納得する「材料」・・・

「情報」ではありません、「材料」です。

 

なんでもいいから腑に落ちる材料が欲しい・・

これ、非常に危ない思考です。

 

こういう状態ですと、メディアのいう事はもちろん、少し権威性がありそうな人の言っている事を盲目的に信じてしまうようになります。

 

そういう状態ですと、詐欺や変な宗教にハマってしまう危険も高くなるのです。

 

 

「知りたい」という欲求をコントロールする

 

ではこの、本当もウソも入り混じった現代の情報社会において、私たちはどのように立ち振る舞っていけばいいのでしょうか?

 

まずは、先ほども触れましたが、「本当の真実など知る事はできない」これを前提に置き、思考することです。

 

一次情報ですら、誰かの意図が入り、本当の真実ではない部分がある。

こう思っていれば、巷に流れるあらゆる情報を、むやみやたらに全部鵜呑みにしないようになります。

 

まずはそういう思考を身に付けるべきです。

ですが、すべての情報に対して、思考して分析しろ・・・なんて事はする必要はありません。

 

と、いうか不可能です。

 

この情報社会、一人一人が持つ「情報量」というのは膨大な量となりました。

この先も、益々個人が持つ情報量というのは増えていくでしょう。

 

その情報全てを、一つ一つ分析していく事なんてしたら、圧倒的に時間が足りませんし、無理して続けていったら精神が崩壊しかねません。

 

自分にとって、さほど重要な情報と感じなければ、深く考えずに「自動的に処理」していく事も大事です。

 

あとは、自分が信頼できると思っている人の言葉を極端に疑う必要もないでしょう。

 

要は、あなたに対して意図して向けられていると思われる情報」かどうかを見極め、考察していけばいいのだと思います。

 

ですが、考察すると言っても、やはりある程度の知識がないとダメです。

 

別の言い方をすると、この情報社会において、あらゆる危険、例えば詐欺や怪しい団体からの誘い・・・こういうものから身を守っていくには知識武装が必要です。

 

知識と言っても、そんな深い知識などいりません。

せめて、世の中の仕組みってどうなっているのだろうと、ネットで調べてみるとか、少しマーケティングを学んでみようとか、その程度でもいいと思います。

 

知識があなたを守ってくれるのです。

 

 

まとめ

 

というわけで、まとめです。

・情報の真偽を見極めるには、まず一次情報かどうかを見極める

・一次情報といっても「本当の真実」というわけではない。

・「本当の真実」など知ろうとするのは無駄な事。

・無駄な事だと認識して、それを前提として自分が重要だと思う情報だけを分析する。

・分析するにはある程度の知識は必要。

・知識が身を守ってくれる。

 

今回の話は、群集心理や行動心理学などにも通じる事です。

これらはビジネスにおいても重要な要素で、マーケティングなどはこの心理を利用してモノを売っていたりします。

 

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ではまた(^^)/